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2010/08/24
作品におけるキャラクター造形についてのお話。 この前Twitterで書いてたことのまとめ的な。
作中でキャラクターの描写が丁寧なほど感情移入しやすいっていうのが僕の理論みたいなもので。 視聴者がどこまでバックグラウンドを理解できるか、理解させるかってことでリアリティが生まれるというか。 ようは架空の存在である二次元のキャラクターにどこまでアイデンティティを持たせることができるのかって話しですね。
今のキャラクターって全然作りこまれてないんですよね。すごく表面的というか。 たとえばツンデレ娘がいるとして、その子は「●●なんだからね!」といっているだけで作中でのアイデンティティを確立しているというか。 けどその子はツンデレなのかもしれないけど、もっと複雑なんですよ。そういった部分へ踏み込んだ描写が少ないというか。 自己を形成するようになったのかという部分が抜け落ちているというか。
まあそれは置いておいて、今回はキャラクターが身につけている小物の話しというか。 例えばの話しなんですが、一時期話に上がっていた「AKG K701」 けいおんの澪ちゃんが持っていて話題になっていたヘッドホンです。
これは一見たんなる装飾品にみえるんですが、実は澪というキャラクターを造形するうえで重要な部品であったりします。 簡単にいえばこのヘッドホンを持っているというだけで、どんな音楽を普段聞いていて、そんな音楽を聞く人はっていう人間性まで見えてくるみたいな。 逆を言えばヘッドホンひとつでそこまでの情報を補足することができるわけです。
僕はヘッドホンや音響機器に興味があるので、K701がどういう音質でどういう音楽を聞くのに適しているか分かっているからというのももちろん有ります。 だからなんとなく澪ちゃんがどういう音楽を聞いているのか想像がつくし、だからこそ澪ちゃんがどういう人間なのか把握することができるというか。
たとえば僕は一時期K26Pというヘッドホンを使用したのですが、これはHRHMを聞く人が持ってるヘッドホンなのです。 街中でK26Pをつけてる人を見るとその人と話したことがなくても「ああこの人はメタル聞くんだ」と一発で分かる。 でもって人間性と音楽というのは深くリンクしていると思うので、そこからちょっとした人間性が垣間見れるみたいな。 何度も言ってるんですが、ヘッドホンひとつで人間性まで説明することができる。
つまり装飾品は”装飾”することが全てでなく、そこから踏み込んだ人間性の部分までコントロールできるというか。 例にヘッドホンを上げただけですが、それ以外のものでも同じことが言えるんじゃないんでしょうか。 例えば着けている時計ひとつ、その時計のデザインから感じ取ることができる人間性。 好きなお酒から見えてくる人間性。 着ている服装から見えてくる人間性。 そういった集合体が人間であるわけで、いいえるならそこにアイデンティティがあり、リアリティが生まれるじゃないのかなーと。
最近のアニメのおけるキャラクター造形っていうのはそういった人間を作るという根底の部分を大きく抜かして表面的になり過ぎている感じがなんとも。 だからキャラクター自体に魅力を感じることができず、薄っぺらいんじゃないのかなあ。
相変わらず文章にするのは苦手なだけど自分用メモ!
2010/07/31
この前の点数に縛られている話はもちろん自分のことであり。 僕こそ点数を取るために絵を描いているのは間違いなく。
では良い絵とはなんなのかという話。
今まで僕は絵を描くときにキャラクターのディティールって部分に全てを注いできたというか。 デッサン的な狂いはないかというか、崩れてないかとか、そういう所だけを見ていたというか。 そういう部分に重点をおいて絵を書いていたことに間違いはないわけで。(実際崩れてるとかいうツッコミはなしで) というかもともとそういうギャルゲ絵ばかり見てきたし、ギャルゲ絵を描きたくて絵を描き始めたのもあると思う。
で、Pixivで明らかにディティールが崩れている、デッサン的な整合性が取れていないのに点数をいっぱい伸ばしている絵がある。 僕はそういう絵を見るたびに頭の上に「?」が浮かんでいたわけだ。
しかし冷静になって分析してみると 良い絵=得点が取れている絵とすると、その種類には2パターンある。
「単純に絵柄が可愛い」 と 「画面から物語を感じることができる」
に分けられる(もしくはその複合)
パターン1は単純に絵が可愛い、ディティール的な部分でも一切崩れがない。 パターン2はディティールは崩れていても、画面から物語を感じることができる。 物語とはその絵は何か一瞬を切り抜いているというか、絵に動きがある、お話がある、もしくは動きを予兆させるポージングやモチーフがあるといった感じ。
じゃあそれを踏まえて自分が今まで描いてきた絵を見返してみると ディティールという部分に全てがいっており、画面から何も感じることができない絵が多い。 もちろんディティールにこだわっていても、それは自分がこだわっているだけであってはたから見れば可愛いわけでもないし、上手いという域には到底達していないわけだ。 しかしその中でも得点が高い絵というのもは何かしらの物語を絵から感じ取ることができる。
例えばうまい人の落書きでは 落書きにしろそのキャラクターがとっているポージングから何かを感じることができる 言い換えれば「見ている側に何かを思考させる」ということだ。
つまりディティール以外での良い絵とは「何かを思考させる絵」ということなんではないのだろうか。 絵をみて何かを想像して楽しむことができるということ。
これからはそういう部分に注目して構図を切っていけるといいな。
2010/07/25
まず最初に。 このブログの拍手機能を無効化してないことに気づいて確認してみるとちょっとだけど拍手・コメントがついていた。 なんか個人的な思考を吐き出すメモでしかないんだけど、ありがとうございます。
◆ブラックロックシューターについての個人的感想メモ。
ブラックロックシューターを見たんだけど、ちょっと個人的には残念だったのでそこら辺のメモ。
まず一言で感想を言うなら 「戦闘を見せるアニメを作りたいけどそれじゃ成り立たないから、バックグラウンドにゆるい百合をおいてみたけど話の整合性が取れず、視聴者を思考させる要素を作中に散りばめて本筋は隠す(というかそもそもない?)」 って感じでしょうか。
Twitter検索でざっくり感想を見てみれば、「話がつまらない」といってる人が大半だったですし、なぜ多くの視聴者がツマラないを思ったのは上で僕が上げてるようなことが要因なのではないでしょうか。
簡単にいうなら「中途半端」であり、「詰めが甘い」 制作者側は上でいった世界観であったりを全て詰めてつくっていて、意図的に小出しにすることにより視聴者に思考させるような作りにし、そこに面白さを見出していたのかもしれませんが、それなら見事に失敗しています。
まず全体的な流れとして、マトとヨミの百合ベースなのはいいとします。 後半にユウが出てきて、マトが嫉妬して失踪する。 ここを際立たせるために前半のむりやりな時間の進め方は有り(前半見ながら違和感はあったけど。) この手法は実に京アニ出身の吉岡忍らしく、僕が言う京アニ特有の丁寧な積み立て演出を尺の関係で圧縮した感じ。 だから音楽だけの一枚絵とか見ているだけでは正直ぱっとしないカットが後半生きてくるというか、そもそも感情劇でしかないので「二人がどれだけ仲がいいか」という描写はやはり必要で、そういった意味ではしっかり押さえてはきている。
でもって問題は「BRS世界の存在意義」ってところ。 このアニメは最初からブラックロックシューターとデッドマスターの戦闘ありきのアニメなので、作画は申し分ない。 しかしこの戦闘の意味が曖昧というか、説明されていないため多くの視聴者が理解できていないわけです。
とりあえず話を見ていて考えられるのはヨミちゃんの心象風景であり、心の葛藤って所。 二人は仲良くしていたんだけど、ユウが出てくることによりヨミの心は荒れ、マトに対する苛立をブラックロックシューター(マト)との戦闘に落とし込んでいるってことなのかなーと思っていたのだけど、ここの設定が曖昧というか。
しかしヨミの苛立を要因とするなら、そもそもアバンから戦闘を開始しているので当てはまらないんだよね。 ここがブラックロックシューター最大の失敗とかいうか、ここで整合性が崩れている。
ヨミが電車に乗って窓に寄りかかってるカット(ここの顔の影のつけ方はヨミの二面性を暗喩している)以降のバトルは全部説明がつくんだけどね。 結局ブラックロックシューターを倒す=マトを自分のモノにするっていうことにすれば説明がつく。 でもって途中でデッドマスターが通路を逃げて出口を鎖で閉ざしてしまう、それをブラックロックシューターが破ってって部分は実にいいね。 心を閉ざそうとしてしまっている自分をマトに助けて欲しいっていう一瞬に弱さを見せてたり。 まあその後結局ブラックロックシューターを鎖で縛り付けてしまうわけだから、結局マトを自分のものにしたいっていうのは変わってないんだけど。
で、その後の分かれ道も実に分かりやすい演出で 最後にヨミのストラップを見つけて、マトがヨミの失踪する原因に気づく。 ここからのブラックロックシューターはヨミの心象風景でなく、実際のマトの投影となる。(ヨミの中のマトではなく、実際のマトがヨミの世界に入り込んでくる) マトを拒絶しようとしていたヨミを強く抱きしめる(現実世界に戻す、仲を戻す)
で、Cパート ここは単純に女の人間関係のめんどくささをそのまま表しているんだろうけど(リアルでもそんな話ばっかりきくし) ユウもマトを自分のものにしたい。
読み方を変えればユウがマトとヨミを意図的に離そうとしていた。 作中に出てくる新キャラ(どうみてもユウ)のことを配慮して考えると マトとヨミが戦っている黒幕はユウだったっていう風にも取れる。 つまり作中に描写はないけど、ユウがヨミに裏で工作していたとか、そういう風に考えることもできる。
結局は一人の女を取り合う女の汚さを表現したかったのか?このアニメは しかしそう思わざるを得ないCパートは何かもったいないというか このCパートで作品に意図的に意味を持たせて、本筋を隠している部分を見えないようにしている感じがなんとも。 「ああ、結局女のドロドロした人間関係だったのね」と思わせて視聴者を一時的に納得させているというか。
というか文章を書きながら自分自身もブラックロックシューターについて読み解けてきた感じはあるから、この文章の整合性の取れなさもなあ。
やっぱり気になるのはBRS世界の意味。 後半はヨミの心象風景ってことで全部説明が付くけど、そうなってくるとやはり前半のバトルシーンが理解できないし、ヨミとユウが出会う前からBRS世界のユウが登場しているし。 そういった意味でBRS世界と現実が完全にリンクしていないというか、そこがまだ理解できない。
なんかよくわかんない文章になってきたけど 頭の中ではまとまってるからまあこれみて思い出せればいいか。
2010/07/12
■ オオカミさんが面白くない理由まとめ
まずオオカミさんのストーリーをざっくり分析してみると 「大神涼子の感情の変化を楽しむ」っていうのが一番のキモ。 ストーリー自体を楽しむ話ではなく、ストーリーに付加する部分が恐らくメイン。
つまり2話なら ・今まで主人公を認めなかった大神涼子が主人公に助けられることにより、主人公を認める。 ・強気でおっぱいもないけど、実は女の子
この二つがキーになってくる。つまりここのドラマを演出することができればおk。
ではどうすればドラマとして成立させられるかという話なんだけど、ドラマを成立させる上で重要なのは話ではなく、登場人物の心境の変化をいかに表現できるかということ。 もっと長いスパンで言えば視聴者にその登場人物をより深く理解させるかということが重要。 感動というものは視聴者が作品自体に入り込み、ストーリー以上の部分に踏み込むことができないといけない。
じゃあ視聴者を作品に入り込ませるためにはどうすればいいか。 簡単なことは視聴者に思考させること。
視聴者は物語を解くことによって視聴者自身でキャラクター像を作ってゆく。 それはキャラクター自体に自分自身の要素を入れ込んで考えることであったり、 自分の好みにキャラクターを解釈するっていうのが重要。
つまりこれが思考ってことだとおもう。 「○○ってキャラクターはどういう人物なんだろう」と考える。
で、視聴者は物語を解きながら思考していくわけだけど、それは些細な描写であったり、間であったりがアニメに置いては重要なんだけど
オオカミさんはその一番重要な「思考させる」ということを拒絶する構成になっている。 簡単にいえばあの「語り部」が邪魔をしている。 もちろんオオカミさんの作品コンセプト上あの語り部はオオカミさんという作品自体を童話のように落とし込んでいるとか、様々な付加価値をもっているし、それが作品の味になっているのも間違いないんだけど。
あるカットが入ってくる(ドラマの要素になるような) ↓ 視聴者はそのカットをもとに自分なりに登場人物の感情や考えを思考する ↓ 語り部がその登場人物自体の感情や考えを突っ込む ↓ 答えがでてしまうため、自分の中でのキャラクター像が作れない=感情移入できない ↓ 自分の思考が邪魔されてしまうのも含めて面白くないと感じる。
こんな所だろうか。 まあ作品の味が逆に作品を殺している感じ。 もちろん原作ではどうかわかんないけど、そもそものメディアが違うから。 けど少なくとも映像作品の楽しみ方ってのはそういう部分にあると思う。
まあ2話まで見た感じでの分析なので、今後の展開によってはオオカミさんを面白いと感じるかもしれない。 そうなってくるとまた理論が破綻してくるので考え直す。
2010/06/28
「今の絵描きは数字に囚われすぎている」についての個人的なまとめ。
先日Pixivで自殺予告があったりして、今一度創作すること、絵を描くことというものについて考えなおしてみた。 まず、今の絵描きは数字、言い換えるとPixivに囚われすぎている気がする。 これは自分自身がそうであり、今回の自予告を出した当人も文章を読む限り恐らくそうだろう。 絵描く=Pixivで評価を得る事だけなってしまっている絵描きが何人もいるはずだ。
そもそもPixiv登場以前の話しをすると(僕は当時絵描きではなかったので、ROM専としての経験則になるが) 1.個人が描きたい絵を描いてホームページに公開する。 2.それを絵描きやその他の人が見て、感想を言ったりコンタクトをとったりする。 3.その人のホームページにあるリンクから自分の好みの絵描きを探すために他のホームページへアクセスする(※2とループ)
という流れがあったと思うし、アクセス数という数字はあるにしろ、そこには得点やブックマーク数はなく、純粋に自分の描きたい絵を描き、それを需要がある人に見てもらうというスタンスだった気がする。
自分の好きなジャンルを検索し、好みの絵や絵描きを探すという根底はPixivでも変わっておらず、むしろその流れが短縮されることにより、より簡単に多くの絵や絵描きを知ることができるようになった、この点は評価したい。 しかしそこにつきまとってくるのが「数字」である。 もちろん絵を描く以上他者と比べて評価されるのは当たり前だし、画力の差もあるので上手い人もいれば下手くそな人もいる。ここの前提は変わらない。 しかし閲覧数・得点・ブックマーク・ランキング等つまり評価を数値化されることにより、より自己と他者の格差が明確になってしまっている。これは果たして良いことなんだろうか。
数字とは単純なもので、数値が高ければ「良い」 数値が低ければ「良くない」と極端な話「二極化」されている。
ではPixivに絵を上げて数字が取れない絵は「良くない絵」なんだろうかという話だ。 (もちろん数字の高い絵は多数から評価されているのでここの話は割愛) けしてそうではないし、中にはすごく良い絵だが得点が伸びていない絵もある。 極端な話をすればアニメのキャラクターデザインや作画監督をやっているような画力を持っている人の良い絵ですら得点が伸びていない絵はたくさんある。 もちろん何を「良い絵」とするかで話は変わってくるが、これは僕個人の嗜好も含めた上での話である。
しかし良い絵を描いているのも関わらず得点が伸びないことにより、自分は良い絵を描いてないという錯覚に陥る。 そこから負の連鎖のはじまりであり、どうすれば数字を得ることができるのかという部分に執着してしまう。 また自分の描きたい絵を描いているにも関わらず、数字が伸びずそれが評価されていないと思い込んでしまう。 そして極端な話をすると数字が伸びず、精神的に疲れ、自殺予告を出してしまったりするわけだ。
ここで言いたいのは万人に受ける絵だけが良い絵なのかということ。 つまりPixivでいう数字が伸びている絵のみが良い絵なのかということ。
けしてそうではないし、Pixivの得点文化なんてものは特殊なもので、一部の評価にすぎない。 それは今のランキングを見てもらえれば分かる。東方やBLを描けば良い絵なのかという話だ。 人気絵師の5分で描いたような落書きがいい絵なのかという話だ。 人気ジャンルは数字が伸びるのは当たり前だし、絵ではなく絵描き自体にも数字が付加している現状である。
そもそも創作とは「自己表現」の4文字で説明できる。 自分の表現したいことを形にする、それだけである。 他者からの評価は関係なく、「自己満足」だけでいいと思う。 そこにあとから他者からの評価がついてくる。 評価なんてものは創作においては付加価値のようなものであるべきだと思う。
しかしPixivの登場により数字として評価が明確になり 本来、自分が表現したいものを作るはずの創作が 数字を稼ぐために評価されるものを作るという風になってしまっている気がする。 はたしてそれは本当の意味での創作であり、絵を描くということなんだろうか。
自分が絵を描き始めた頃のことを思い出して欲しい。 そこには純粋な自分が表現したいものを表現するということだけしかなかったはず。
あくまで趣味の範囲での創作の話であり、商業になってくるとまた話が別。 商業は数字を稼ぐためにモノを作るので、僕の中での創作の意味とはちょっと話が違う。 勘違いしないで欲しいのは評価される絵を描くことを否定しているわけではないということ。 もちろん他者から評価されたいと思うのは当たり前な事。 しかし他者から評価されることに囚われすぎて、本来の自己表現を忘れてしまっている人もいるのではないのかとう話である。
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